活動紹介
第15回高岡市公民館フェスタへの参加について
■日時 平成31年1月27日(日)午後0時30分~
■場所 ウィング・ウィング高岡(高岡市生涯学習センター)
■内容 プログラム表紙 第15回高岡市公民館フェスタ
■高岡市と金沢市との都市間交流事業として、平成22年度から両市の公民館同士が連携を図り、また情報交換を推進し、文化交流活動を促進していくため、芸能及びコーラスの相互派遣を行っております。
今年度は「ホール発表」に金沢市から、西公民館の伝承芸能「天保流れ節保存会」が出演しました。
・11番目の午後2時30分頃から、16名の出演者が天保流れ節の唄と踊りを披露しました。出演者と観客が一体化した舞台で臨場感があり、多くの観客に大きな拍手をいただきました。
・天保流れ節の由来と伝承‥‥天保年間(1831年~1845年)は天候不順により不作が続き、加えて冷害凶作とコンカ虫、イナゴなどの害により加賀地方は大飢饉にみまわれ、特に天保9年頃には農民の中にも餓死するものも続出しました。たまりかねた西念新保、下安江、南新保各村の肝煎、組合頭、村役ら15人が近郷26ヵ村を代表して凶作に苦しむ農民を救おうと加賀藩に年貢米の減免を願い出ました。当時の改作奉行らがこの減租運動を弾圧し、先頭に立った15人を捕え、殴る、蹴る、ムチ打っての拷問を加え『年貢米を完納する』の誓約を行なえ‥と責めつけ、あげくに投獄しました。15人の代表の田畑は没収、家財封鎖、一族128人(南新保45人、西念新保38人、下安江30人)を約9年間、越中五箇山へ流刑しました。15人の代表は入牢され、残りの女子供たちは煙硝造りや奉書の原料(こうぞ採り)の苦役に従事させられました。明治30年に至り、時の人、勝海舟翁が事の真相を知り『天保義民之碑』と大書。当時の関係町村有志と遺族らの手で、木ノ新保5番丁(金沢駅前)に鳳凰羽ばたく石碑が建立され、天保義民顕彰会がこれを管理し、大正7年には金沢駅拡張で西念新保村に移転され、昭和55年駅西区画整理事業計画の関係で、現駅西中央公園の一隅に移転され、今は金沢副都心の発展を眺望して羽ばたいています。戦後は近代化の波に押し流され、農地は減少し、義民の労苦の跡をとどめるものは何もなく、後世に語り伝えるには唄や踊りに託する以外にないとのことで、昭和48年頃に地元の古老たちに作詞をお願いし、民謡愛好家らの手で哀調を帯びた曲が作られ、これに踊りを振り付け『天保流れ節』と命名し、(天保流れ節保存会)戸板・諸江・鞍月・長田・西校下5地区ほか(旧26ヵ村)共催の「駅西夏祭り」や各校下の盆おどり大会でも踊り唄い継がれ、毎年、祖先流刑の地、越中五箇山でも供養を兼ねて踊り唄われ、五箇山の人々と交流をはかり、また毎年夏には天保義之碑の前で法要とともに祖先を偲んで踊り唄われています。【平成5年金沢市公民館職員連絡協議会発行の「地域に生きる民俗芸能」より一部加筆】
■出席者 天保流れ節保存会16名の皆様、西公民館野路治子館長、金沢市公民館連合会関戸正彦会長、同森田勝事務局長が出席しました。
■高岡市公民館フェスタの様子
> 前のページに戻る